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戦後歌謡界を代表する作曲家の遠藤実さんが6日午前10時54分、急性心筋梗塞(こうそく)のため、都内の病院で亡くなった。76歳。葬儀は近親者のみで行い、後日、お別れ会を開く。喪主は長女・由美子さん。遠藤さんは「星影のワルツ」「北国の春」「高校三年生」などヒット曲を次々と生み出し、手がけた楽曲は5000曲以上。05年から日本作曲家協会会長を務め、後進の育成、指導に尽力していた。
日本人の心に響くメロディーを次々と生み出した、遠藤実さんが天国へと旅立った。関係者によると、遠藤さんは10月中旬、横浜市内で行われたパーティーに出席中、胸の不調を訴え、都内の病院に緊急入院し、心臓バイパス手術を受けた。
1988年にも米ハワイで同じ手術を受けていたが、懸命な治療で回復。12月に入りリハビリをするまでになったが、5日午後7時過ぎに、手術した個所とは違う血管が詰まり、緊急手術。6日午前、容体が悪化、親族や歌手・千昌夫(61)、作詞家・いではくさん(67)ら門下生に見守られ、息を引き取った。
作曲は独学だった。幼少時、新潟で極貧生活を送った。歌手を目指し、戦後すぐの49年に17歳で上京。ギター1本を抱え、中央線沿線の飲食街を “流し”で生活。57年に「お月さん今晩わ」(藤島桓夫)のヒットで注目を浴び、舟木一夫の「高校三年生」や千昌夫の「北国の春」など明るくシンプルな調子に、郷愁を誘うメロディーを織り交ぜ、ヒット曲を“量産”。古賀政男さんの後継者と呼ばれた。
「頭と体が火のように燃え上がって、メロディーがどんどん出てきた」。森昌子の「せんせい」は歌詞を見た瞬間、ひらめいて5分で曲を仕上げるなど、独特の感性で曲を生み出した。売れっ子になった60年代には印税840万円を枕にして寝たこともあった。「貧乏時代のカタキを取りたかった。少ない稼ぎから“仕送り”したことを歌の神様が見ていてメロディーを与えてくれたと思う」
「北国の春」「星影のワルツ」がアジア各国に浸透、遠藤メロディーは国境を超えて愛された。各国と音楽を通じた文化交流を図る一方、人情家で、内弟子を一流の歌手に育て上げ、94年には私財を投じ、歌謡音楽振興財団を設立し、作詞、作曲の人材育成に尽力。新潟には音楽史料館「実唱館」を設立、北朝鮮拉致被害者をテーマに「春の来ない冬はない」を作るなど、幅広い活動を行っていた。
◆遠藤 実(えんどう・みのる)1932年7月6日、東京・向島生まれ。43年に新潟県に疎開。終戦後の49年に上京、流しの歌手に。52年「破れソフトのギター流し」で作曲家デビュー。57年「お月さん今晩わ」のヒット後、マーキュリーレコード、コロムビアを経て65年、自身の名前を冠にしたミノルフォンレコード設立(現・徳間ジャパンコミュニケーションズ)。70年からフリーに。94年日本レコード大賞功労賞を受賞し、遠藤実歌謡音楽振興財団を設立。03年文化功労者。05年から日本作曲家協会会長を務めた。
参照元:スポーツ報知