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俳優の三國連太郎が84歳で主演した「北辰斜(ななめ)にさすところ」(神山征二郎監督)が22日、公開された。実に186本目の映画出演作だが、三國はいまも次々に舞い込む出演依頼の大半を断る。その理由はなにか。デビュー時「1行のセリフもまともに言えなかった」人間を、邦画界を代表する名優にしたのは何だったのか。三國の考える究極の俳優像は「自己顕示欲を消し去ること」だという。

 「断らずに全部やってしまったら、内容次第でお客さんに被害を与えるでしょ? いい脚本も説明過多の時代。お金(出演料)もらいにくいですよね。無理やり内容を押しつける気がして」。今作も断るつもりでいた。親子3代で戦争を考える話で、台本に三國演じる主人公が孫に語る言葉があった。「南方の島々にも、こん先の海の中にも、帰ってこれん者が、いっぱいいるとよ」―。このセリフを言いたい衝動に駆られた。

 三國にも中国出征の経験がある。一度も実弾を撃たなかった。「爆撃応戦の時、農家の人糞(ぷん)おけに飛び込んで隠れたりね。生き抜くことは、何とこっけいなんだろうと思いましたよ」。自身、小5の男の子の孫がいる。佐藤浩市(47)の息子だ。「子供たちの人生を考え、間違った歴史が伝わるような役はやらないようにしてきました」。186本中の出演作の約10本は反戦に関するものだ。

 戦後、放浪中にスカウトされこの世界へ。「俳優志願なんて“ハ”の字も。映画も小学時代に『キングコング』を見たぐらい」。デビュー作「善魔」(木下恵介監督)で初めて演技をしたことを覚えている。「全然しゃべれない。あがっちゃって。1、2行のセリフもダメで。みんなあきれて横向いちゃって。こいつはバカじゃないか?って思ったでしょうね。でも木下監督は粘ったんです」

 いま、名優の評価を欲しいままにしているが自信がなく、不安を役への半端でないのめり込み方で振り払った。当時33歳。老け役のために「異母兄弟」(1957年)で上の歯全部を抜いた話は有名だ。

 「抜いた後悔? 全然ないです。痛くて腫れちゃったんですが、鏡を見るとまさに老人の顔だった。単純に『いい顔になったなぁ』と。僕はいまもって後悔というものをしたことが一度もないのです」。半世紀を超える俳優生活。「いまも“演じる”ことがよくわからない。強いて言えば、どれだけ自己顕示欲をなくせるか、じゃないでしょうか」

 新人に無限の可能性をみた木下監督を始め、山本薩夫、内田吐夢、今村昌平監督…。映画への気概、気骨ある人々との「多くの出会いこそが私を変えたのです」。泉下の恩人たちを裏切りたくない思いが、三國を支えている。

 ◆三國 連太郎(みくに・れんたろう)本名・佐藤政雄。1923年1月20日、群馬・太田市生まれ。84歳。50年松竹大船撮影所に研究生として入所。51年映画「善魔」の三國連太郎役でデビュー。そのまま芸名に。代表作は「ビルマの竪琴」「飢餓海峡」「神々の深き欲望」「八甲田山」「復讐するは我にあり」「息子」「生きたい」など。原作・企画・監督した「親鸞・白い道」で87年カンヌ国際映画祭特別賞。

 ◆初日舞台あいさつ登場 三國はこの日、東京・新宿のシネマスクエアとうきゅうの初回上映前に行われた初日舞台あいさつに登場。劇場は立ち見客もあふれる盛況ぶり。出征経験のある三國は「遺骨が帰ってこなかった人たちの魂、その気持ちをくみ取って演じたつもり」。タイトルにもなっている旧制七高(現鹿児島大)の寮歌「北辰斜に」を熱唱するなど威勢のいい学生を演じた緒形直人(40)は「11歳になる息子も太平洋戦争を学ぶようになった。ぜひ見せたい」と若い世代が見ることを願った。

参照元:スポーツ報知

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